「過去」はパラパラ漫画です
お久しぶりです。
気づくともう1年もブログをお休みしていました。
ジェットコースターのような2年間を過ごしていたのです。
さまざまな氣づきを得て、足元にある地面がいつなくなるのだろうという恐怖と共に生きなくていいのだとやっと思えるようになり、こうして言葉を紡げるようになりました。
氣持ちを新たに、ブログ名も変えました。
「氣づき」から始まるセルフセラピー。
日々の氣づきから学び、自分を見つめること。
癒やしの一歩は、いつもそこから始まるのだと思います。
頻繁には書けないかもしれませんが、
また、やわやわと綴っていきたいと思います。
さて。今日の本題です。
「過去」はパラパラ漫画である。
スピリチュアルではおなじみの概念ですが、
よく知らなーいって人のために解説しますね。
時間は連続していない
「時間は連続しているものだ」という概念から見ると、
過去-->現在-->未来 は繋がった1本のラインです。
ふつうは、こんな認識ですね。
これをAパターンとしましょう。
連続していないと、どんなかというと..
こんな感じかな?
これBパターンとします。
パラパラ漫画のように、映画のフィルムのように、繋がっていないものが連続再生されることで、1本に繋がっているように見える。
ふたつの違いは何かというと
それがどうした、どこがどう違うんだ、というと、
一番の違いは、
Aパターンでは、「過去に起因して現在がある」のに対し、
Bパターンでは、「『過去』と『現在』に関連性はない」
というところです。
Aパターン
Bパターン
「過去」と「いま」が別ってどゆこと?
Bパターンで時間を見ると、全部が別の瞬間。パラパラ漫画でいうと、全部が別の紙です。
連続して繋がっているというのは幻想ということになります。
じゃあ、これを繋げているものは何か。
問題提起したところで、キリがいいので次回に続きます。
(説明だけで長くかかってしまったーーひっぱってるわけじゃなく時間切れ(汗)ほんとに書きたいことは後半です!!)
「そこ」は「底」ではないのかも。
今はもう無くなったSNSに、むかし、同じタイトルで記事を書いたことがあるのですが、
最近、「やっぱりそうかも」と感じているので、
思い出しつつ、今の自分のモードで書いてみますね。
すごくしんどくて辛くて苦しい時、
自分は“落ちて(or堕ちて)いる”とか、“どん底に向かってる”って思ってしまうと思う。
前に足が出ない、重くて苦しい、この状態。
なんか..これ..別の感覚で似てるシチュエーションがあったなぁって、ふと思って記憶をたどってみたら、
それは、私の数少ない「登山」の体験にそっくりだった。
と、いうことは。
めっちゃしんどいこの状態は、「底」ではなく「上」に向かって登っているのではないだろうか?
だって、下り坂より、上り坂のほうがしんどいに決まってる。
もしそうなら。このしんどさを乗り越えたら、すてきな景色が待っている?
元も子もないことを言えば、次の山が用意されてるのかもしんないけど(笑)
少なくとも、「落ちてる」んじゃなくて「登ってる」ってイメージしただけでも、
気分は変わってくるんじゃないかな。
頂上で見たい景色は何だろう。
見れるか見れないかは置いといて、それを想像するだけで、未来の分岐が増えるはず。
だって未来はイメージしたとたんにその可能性が誕生するから。
(これは最新の量子力学(?)でも解明されているらしい..)
そんなことを、最近また考えています。
いやもう、人生初の登山、ほんと辛かったんで(笑)
けど今となってはいい思い出なので。
放り出されることは絶対にない
この記事↓を読んでしばらくしてから思ったのだけれど..
お金にフォーカスすることはあっても、
空気にフォーカスすることってないなぁって。
フォーカスするとかしないとか以前の問題だし、空気をエネルギーだと考えたこともなかった。
空気ってなんなんだー?
ほんとに、誰も疑いもなく周りにあって当たり前、って思ってるもの。
わたしたちの周りにびっしり隙間なくあって、わたしたちを生かしてくれているもの。
取り除こうとしてもできないもの。
空気のない「真空」という場を人工的に作ったとしても、ちょっとの隙であっというまに入り込んでくるもの。
不自然なものは長くは続かないから、
「真空」が長持ちしないのは、「空気」があることが「自然」だから。
水の中では水が周り中にあるのが当たり前。
大気圏外では空気がないのが当たり前。
「宇宙は愛というエネルギーで満たされている」という説は聞いていたけれど、
どーにも実感がなかったんだけども、
空気と同じ感覚で実感できるものだとしたらすごいなあって。
まったく気にしていなけれど、
わたしたちの周りをびっしり取り囲んでいる透明なエネルギー。
しかも守備範囲は空気を超えて超ひろいときてる。
水中だろうが大気圏外だろうが、そこら中に愛があって、取り除くことなんてできない。
わたしたち迷える子羊たちは、
親とか家とか世間とか社会とかから放り出されたらどうしよう、という分離感を持っているのが生きづらさの原因でもあるのだけれど、
もしわたしたちが愛の中に生きているのなら、
放り出されることは絶対にない。
だって、例えば「家から放り出される」ということは想像できうるけど、
「地球から放り出される」とか「宇宙から放り出される」ってことはありえない、って思えるもの。
そう考えると、
もっと安心のなかで生きてていいんじゃないのかな。
ちょっと(かなり)散文。
あとで書き直すかも。